2007年6月16日(土)

憲法のこと

憲法については高校までで学んだ知識しかなく、結局のところどうなのだろうということを自分の頭で考えてみようと思い、とりあえずいつも楽しくblogを読ませてもらっている内田先生他の「9条どうでしょう」(内田樹、平川克美、小田嶋隆、町山智浩・毎日新聞社)を読んでみた。

9条どうでしょう

が、これはあくまで世間話を域を出ておらず、他人の意見としては参考になるが、結局のところどうなのだろうということを考える本ではなかった。したがって、論文読みの鉄則に従いそこから参照されていた以下の2つの本を見繕って読んでみた。

「日本国憲法を生んだ密室の九日間』(鈴木昭典・創元社)

1993年に朝日放送のドキュメンタリーとして放映された同番組のディレクターが、取材資料をもとに書き下ろしたもので、GHQ民政局で憲法草案作成に携わったメンバーへのインタビューとエラマンメモと呼ばれる議事録を中心に、GHQ草案の作成の過程を再現ドラマ仕立てで書いている。アメリカ側の視点を中心に、占領政策の一環としてあった憲法改正に対する実情が見て取れて興味深かった。

「新憲法の誕生」(古関彰一・中央公論社)

憲法研究者が現日本国憲法制定の一部始終を主に日本側の視点から書いている。前者の著書ではあまり拾いきれていない戦後の世相やGHQ草案の日本化の駆け引き、9条の芦田修正にまつわる話やなぜ改正議論が制定後40年も経って(1989年の著作)未だに進んでいないのか、というところまで言及があるのが読み応えがあった。

適当に選んだわりには、この2冊はグッドチョイスだった。読みやすかったし、アメリカ側と日本側のそれぞれの視点が読めたのはよかった。それに文句なしに面白い。 こんなに面白いものとは思わなかった。今馴染みのある憲法は、ひとまとまりの条文として一体のものとして制定されたのだと思っていたのだけど、ずっと寄せ集めのモザイク模様であったこと、また戦後のあの時期にはもっと違った条文や文面が制定されていたかもしれない、という可能性が無限に広がっていた(少なくとも日本人はそう思っていた)ことがわかっただけでも収穫だった。

いま報道されているような憲法議論は、その大半が9条の議論につくされているにも関わらず、国際情勢への影響についての議論が足りない気がする(護憲にしても改憲にしても)。そういうものの考え方は、終戦直後とまったく変わってないか、むしろ退化しているのではないかと思えるほど。

ま、とりあえず他の本ももう少し読んでみようと思います。

2007年2月13日(火)

「一瞬の風になれ」(佐藤多佳子・講談社)

一瞬の風になれ 第一部  --イチニツイテ--一瞬の風になれ 第二部一瞬の風になれ 第三部 -ドン-

既にベストセラー化してますが、ようやく読了。3冊シリーズということで読み応えがあり、長編好きのものとしては高く評価したいです。幕引きもあっさりしていて好印象。高校時代に運動部に入っていたものとしては「こんなきれいな話ばっかなわけないやん」と思いながらも、試合で3年生が引退するシーンでは思い出して泣いてしまったりと、自分のことを思い出しながらの面もありました。陸上をやっていたひとならなおさらなのかも。

ちょうど前後して、高校時代の運動部の主将を務めた同期の結婚式がありました。当時の仲間が集まってどうでもいい想い出話をやるわけですが、たいてい決まって同じ話をすることになるのに笑えます。みんなもういい歳したおっさんなのに。だからか。

ちなみに女子と一緒に練習したり試合があったりするのは運動部の中ではめずらしい。というかうらやましいです。まあ何か起こって当たり前でしょ。

2006年8月10日(木)

はぐの儚さと強さと、山田さんのさびしさとやさしさと

うぃ氏の「映画『ハチミツとクローバー』に蒼井優が出てる」という特定のひとに向けられた独り言(wを聞いて原作を大購入。8巻まで読了後に映画を観た。

コロボックルはぐをどんなふうに演じてくれるのだろうと期待と妄想に胸膨らませていただけに、その内容は僕にとってかなりいまいちなものだった。はぐというキャラクター、あるいは蒼井優という女優の持つ魅力を1/10も出せてないんじゃないかと声を大にして言いたい!(←妄想しすぎです)まぁ最後の海のシーンは9巻を読んでから行けばまだ印象も変わったのかもしれないと思うとちょっと惜しい。でもそれだけ。

個人的には、はぐ先生の夏休み絵画教室のあたりを丁寧に描いてくれたりするとうれしかったのだけど、所詮タイアップ映画みたいなもんだからしょうがないのかなぁ。CM予告編で流れた集英社のナツイチの蒼井優の方が映画よりもずっと活き活きとした表情をしていたりして、実に惜しすぎる。はぐ~~~っ。

というわけで、口直しに「花とアリス」を観た(笑。やっぱりええなぁ。この映画。

原作のほうは9巻で大転回を見せてるけど、真山&山田さんはだいたいどうにかなるとしても、竹本くん&森田さんはどうおさまるのかなぁ。竹本くんの過去の話と森田さんの過去との話で軸足がぶれてる感じがしてあぶなっかしい。で、狂言回しであるところの花本先生もあぶなっかしいし。なんとかおさまるところに収まってくれんかなと思います。

2006年1月29日(日)

「雲のむこう、約束の場所」

雲のむこう、約束の場所

「雲のむこう、約束の場所」の小説版。 映画のノベライズものってあまり好きではないのですが、amazonでの書評が「思いのほかよかった」という感想が多いのと、塔から帰ってきたあとに何が起きたのかを知りたかったこともあって読んでみました。

映画を見たときに不満に感じた、ヒロキの東京での高校生活がきちんと描かれていたのはよかったです。特に映画でも一瞬出てくるヒロキの女友達の水野理佳の存在は、どうしようもなく暗い話の唯一の救いだったように思います。しかし、肝心の塔から帰ってきてからの話は、正直読まなきゃよかったと思いました。暗いし、救いがない。ヒロキ以外のひとたちは、望まない離別があったとしてもそれぞれ進むべき道に進んでるように思える(サユリですら!)のですが、ヒロキ自身は物語冒頭で描かれたように青森に帰って廃駅の格納庫に足を延ばして感傷に浸っているわけで、結局そこから何も進んでないのですね。えろげにありがちなダメ主人公を彷彿とさせるものが(苦笑)。

ま、そんなこといいつつこういう暗い話が好きな自分も自分ですが(汗;。。。

しかしながらサユリの味付けは趣味全開ですな。バイオリンが弾けて宮沢賢治とか文学方面に明るくて、可愛くてしかも自分の魅力に無自覚(←ここ重要)。次も期待。

2005年12月30日(金)

AQUA(天野こずえ・マッグガーデン)

AQUA 1 (1)AQUA 2 (2)

通勤途上の目黒駅にてTVアニメ「ARIA」の宣伝ポスターを見て気になって購入(ちなみにTVアニメは未見)。『横浜買い出し紀行」っぽいという話もあるけど、あれほどSFっぽくもないし、哲学っぽくもないかな。まったり感はあるけども。

「AQUA」はまだ序章なのでなんとも言えないけど、いろいろとありそうな裏設定が明らかにされていくのかどうかってところを期待しつつ「ARIA」を読み進めてみたいと思います。

2005年12月 1日(木)

最近読んだ本

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉

今さらと言えば今さらなのですが、なぜか読んでいなかったので。

しかし偶然なのか周知の事実なのか、ここに出てくる世界の終りの街と「灰羽連盟」のグリの街のイメージがオーバラップしてしょうがないです。壁の描写とか鳥だけが越えることができるとか、街での仕事とはどういうものなのかとか、なんか類似点はいろいろありそうなのです。が、本質的には異なる話であるので、そういう部分も含めて楽しめました。「灰羽連盟」もちゃんと見直したくなったり。

あとどうでもいいですが、ちゃんとしたサンドイッチが食べたくなりますね(笑。

2005年9月 5日(月)

「エンピツは魔法の杖」(サム・スウォープ・あすなろ書房)

エンピツは魔法の杖―物語・詩・手紙…ニューヨークの子どもたちに「書くこと」を教えた作家の奇跡のような3年間

ニューヨークのクイーンズ地区、移民たちの子供たちが多く通う小学校で、3年間ボランティアで「クリエイティヴ・ライティング」を教えた作家と子供たちの紆余曲折の日々(と表現するのが適切と思う)が綴られている。実はこの本を書いたサム・スウォープさんが先日うちにいらした来客そのひとであったのです。邦訳版の出版記念の関係で来日されていたのですね。この本を読んでから会っていればもっといろんなことが聞きけたであろうと思うと実に無念ではありますが、僕のつたない英語ではたいしたことが聞けなかったであろうこともまた事実なので、とりあえず本を読んでしばし思いをめぐらせる。

一番印象的だったのはスジュンという韓国人の女の子の話。彼女は結局サムさんの授業に感化されることはなかった。『教師は自分の情熱を生徒に示すことはできても、望まぬ生徒の胸にまでその情熱を届けることができない。わたしはその苦い真実を思い知った。』しかしその彼女も音楽に対する類まれなる才能を持っていることを、学校のバンド指導をしているフォルティ氏から教えられるのである。『知り尽くしていると思っていたのに、スジュンのことをなんにも知らなかったのではないか。そんなに音楽が好きだったのか。それで初めて合点がいった。いま思えば、わたしの部屋でチラチラ時計を気にしていたのは、バンドの練習に遅れたくなかったからなのだ。』すべてがうまくいくわけではないけれど、すべてがうまくいかないわけではない。この本のよさは、そこにあると思う。

2005年2月 6日(日)

「蛇行する川のほとり」(恩田陸・中央公論新社)

蛇行する川のほとり

読了。3部構成の部分はよかったのだけど、終章はちょっときれいすぎるのでは、という印象。なぜ香澄は毬子にだけ真実を話したのか動機付けがいまいちわかりませんでした。あれだと芳野さんがなんだかかわいそうに思えてしまう。

僕の中ではっきりと輪郭を持って感じられたのは真魚子さんだけかな。

2005年1月30日(日)

ここしばらくで読んだ本

「夜のピクニック」(恩田陸・新潮社)

夜のピクニック

高校生ぐらいの行事の想い出というのはどうしてこれほどまでに美しいのだろう。たまにこういうどうしよもない青春小説というのを読んでみたくなる。恩田陸はその思いに応えてくれる数少ない作家のひとりだと思う。最近出た「蛇行する川のほとり」も読んでみたい。

「戦争と平和 それでもイラク人を嫌いになれない」(高遠菜穂子・講談社)

戦争と平和 それでもイラク人を嫌いになれない

昨年の夏ぐらいだったろうか。日経ビジネスの「敗軍の将 兵を語る」というコーナーでなぜか高遠さんへのインタビュー記事が載っていたのが気になって本を読んでみた。内容の確度や主張の是非は多々あれど、繰り出される言葉の持つ力は行動に裏打ちされているだけあって踏まれても決して折れることがないように思う。
印象に残ったのは監禁された家にいた老人と少年のこと。まったく見ず知らずの異人を家に迎えて寝食を供するというのはどういう気分だったんだろうか。

「九年目の魔法」(ダイアナ・ウィン・ジョーンズ・東京創元社)

九年目の魔法

ハウルの原作「魔法使いハウルと火の悪魔」は正直面白くなかったのだけど、ダイアナ・ウィン・ジョーンズだったらこっちの方が面白いという奥さんの薦めで読んでみた。

全篇がカットバックで、物語の本筋が語られ始めるのは半分を過ぎてからという構成はちょっと我慢がいるところだけど、主人公の女の子ポーリィは魅力的に描かれていて、楽しめました。ファンタジーというよりは少女小説+ミステリといった方が正しいのかな。解説を読むとダイアナ・ウィン・ジョーンズが描きたい女の子像というのがわかって興味深い。頑固で直情的だけど自分を客観的に見る目ももっていてサバサバしたところもある、そんなような。

ハウルのソフィーが原作でどう描かれていたかはよく思い出せないのだけど、そこから想像するに映画のソフィーは健気すぎる。あれは完全に宮崎さんの味付けなんだろうな。もっとハウルを突き放すぐらいの描かれ方をしていたら、映画も全然違った魅力を持っていたかもしれないと思うと惜しい。まぁいいけど。

2004年7月25日(日)

ちょっとうれしい

「育ちゆく子に贈る詩」(不二陽子・人文書院)の内容を謝意も込めてamazon.co.jpにレビューとして書いておいたのだけど、それに著者からのコメントがついていた。
本の感想を著者宛て(出版社宛て)に送った経験はあるけれど、こういう形で返事をもらえたのは思いがけず、うれしい。

北村薫・続再読

ふと書店に立ち寄ると「朝霧」が文庫になっていたので、購入して再読。ちなみに初回は図書館で借りたけどほとんど内容は忘れてしまっていたので、心機一転で読むことができました。
「山眠る」あたりの俳句問答は少々うむむという感じだったけど、表題作「朝霧」は前作からの伏線がうまく盛り込まれ、シリーズファンを楽しませてくれる一作でした。シリーズを通じて「たとえ喪失や離別があったとしても、それによって誕生や邂逅の輝きが失われるものではない」という強いメッセージを感じます。

2004年7月 4日(日)

「ICO -霧の城-」(宮部みゆき・講談社)

ICO  -霧の城-

ゲームの場面を逐一説明するような表現には正直まいりましたが、ヨルダの過去の話は概して楽しめました。イコの味付けがいかにも宮部っぽい感じなので、ここはひとによって好き嫌いが出そう。ヨルダ母は結局どうしたかったのか、というのが終始ぼやけてた気もしますけど、それを突き詰めるとゲームのようなラストにはならないので、そのあたりがノベライズの限界なのかもしれません。

そういえば「ICO2」ってどうなったのかな...。

2004年6月27日(日)

北村薫・再読

「街の灯」を読んだのにつられて、「秋の花」「六の宮の姫君」「夜の蝉」と続けて再読。

円紫と《私》シリーズの中では「秋の花」がお気に入りで何度か読み直している。今回心を捉えたのは、主人公である《私》が大学の体育の授業でトランポリンをやったあとに出てくる一節で、


「その時には、何だかふっと、私に子供ができ、その子も大きくなってしまった頃、夜の台所の辺りで、こんな情景をわけもなく思い出しそうな気がした。」

というところ。なぜここにひかれたかというのを説明すると難しいけど、自分の子供をみて自分のことを思い出し、さらに子供のことをみて自分のことを思い出しているという親のことを思い出したりするという二重の感覚が込められてるように思ったから。実際、親もいて子供もいる真ん中のひとというのはなかなか立場としておかしみがあると思います。ちなみに最初に読んだときの感想でひいているのは全然違うところなのね。

もっとオドロキは「秋の花」より「六の宮の姫君」のほうがなぜかずっとぐっときた。菊地寛の小説を読んだことがない僕でも読みたくなったぐらいに。最初はこんなこと書いている。あぁもったいないぞ。これを読めてないのは。やっぱり再読って面白いです。

今回思ったのは「秋の花」にしても「六の宮の姫君」にしても、実は「家族」というテーマでも読み解けるものなんだということ。「夜の蝉」の中の「夜の蝉」なんかは、《私》にとっての姉という存在についてダイレクトに描かれているけども、その後の作品でもその姿勢は変わらないんだということを感じた次第。

2004年5月22日(土)

「街の灯」(北村薫・文藝春秋)

街の灯

ひさしぶりの北村薫。昭和初期の東京、女子学習院に通う社長令嬢である主人公とその運転手ベッキーさんを軸にしたいわゆる北村ミステリ。「銀座八丁」が特に小気味よい。桐原勝久と主人公のやりとりなんかは、昔の位をもったひとはほんとにこんな芝居みたいな会話を交わしていたのだろうかと思うぐらい品がある上に隙がない。どうやらシリーズものになりそうなので、この先も楽しみにしたい。

しっかし。北村薫は令嬢好きなのかしら?覆面作家シリーズしかり、「リセット」しかり。いや好きだからいいんだけど。

2004年4月21日(水)

「神の守り人<来訪編><帰還編>」(上橋奈穂子・偕成社)

神の守り人<来訪編> 神の守り人<帰還編>

守り人シリーズの最新刊二巻読了。アスラを通して自らの心の闇を追い続けるバルサの想いも心に残りますが、スファルの放つ追っ手からの逃避行のあたりも手に汗握る感じで読み応えありました。ひとの意思と意思のぶつかりあいを描きながら、ベースとして冒険活劇をはずしていないところが好きですねー。

2004年4月10日(土)

育ちゆく子に贈る詩(不二陽子・人文書院)

育ちゆく子に贈る詩(うた)―シュタイナー教育実践ノート

現在、東京シュタイナー・シューレの上級学年講師を務める著者が、東京・町田(かな?)で主催していた小学生を対象としたヴァルドルフ教育のフォーラムでの活動記録をつづったもの。活動の中に誕生日に著者が子どもたちに詩を贈るというものがあり(実際のヴァルドルフ学校では1年の締めくくりに先生が生徒に通信簿とともに詩を贈るらしい)、それぞれの子に贈った6年分の一連の詩を取り上げながら、著者の思いと子どもたちの成長の軌跡が記されている。

今まで読んだ本は、ほとんどが海外(主にドイツ)での事例を取り上げたものだったり、ヴァルドルフ教育“を”学ぶことが主だったりしたが、この本は実際に日本でヴァルドルフ教育“で”学んだ実践の記録であり、ずっと具体的で身近に感じることができた。でもそれよりもなによりも、「あ、教育ってこういうものなのか」ということにはじめて気づかされた、とても印象深い本だった。

教育が何か知識や経験を教えることだったら、その道(国語、算数、理科、社会、などなど)のプロフェッショナルであればできるような気がする。でも、その子の話を聞いたり、友だちや親とのやりとりを観察する中で、本人もまだ気づかないその子の心の姿を知りそれに少しでも応える取り組みは、相応の訓練を詰み、さらに経験を詰んだひとでないとできないだろう。誕生日にその子の心に響くたったひとつの詩を贈る、という行為の中に、学問ではなく教育の本質が見えるように思った。親に出来ることもたくさんあるだろうけど、これだけはなぁ... 親・親戚以外の第3者の大人から言葉を贈られるというのはいい体験になりうると思うし、自分の子どももそういう大人と出会って欲しいと思います。

2004年4月 3日(土)

「ヨコハマ買い出し紀行(11)」(芦奈野ひとし・講談社)

ヨコハマ買い出し紀行 11 (11)

第102話「A7M3丸子マルコ」でのアルファさんの発言を受けての第108話「しずく」のモノローグは意味深い。「ロボットであることを気にしてなきゃいけないとは思っていない」という裏返しとして「ロボットであることを気にしないでいられることはない」ということがあるんだろうな。

ほとんど1年1冊ペースだけど、これぐらいのスピードで楽しみたい作品は他にないかも。

「苺ましまろ(3)」(ばらスィー・メディアワークス)

苺ましまろ(3)

アナたん...。

いやいや、ますますもってお気に入る世界にぶっ飛んでいるのでいいです~。「リコちゃんハウス」の脈略のなさなんか、うい師が哲学的と評するのもうなずける。いずれにしてもある意味かなり高度な笑いだとは思うのだが。

「恋風(4)」(吉田基已・講談社)

恋風(4)

ただ固唾をのんで見守るのみ。「羊のうた」みたいな(感じの)結末はできれば避けられてほしいものではあるけども。

芥川賞受賞二作

文藝春秋2004年3月号が転がっていたので、とりあえず芥川賞受賞二作を読んでみました。どちらも個人的には特にどうでもいい感じの作品でした。どうやら僕には理解の素養がないようです...。

感じたことを率直に書くと、基本的にどちらもまっすぐだなーってことですね。書いてるひとはもちろん若いのですが、その若さが作品からも透けて見えるようでした(悪い意味ではないです)。特に綿矢りささんの「蹴りたい背中」なんかは、おじさんが「娘の気持ちってこうだったのか」みたいなことを考えてしまってもおかしくないような感じ(もちろんそういう考えは作品の本質からははずれてしまっているのだけど)でした。でもこれ同世代のひとが読んだらどう思うのかなぁ。もうちょっと人間は意外性と複雑さに満ち満ちているように思うのだけど。

「モモ」(ミヒャエル エンデ・岩波書店)

モモ―時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語

「『モモ』を読む シュタイナーの世界観を地下水として」(子安美知子・朝日新聞社)を読んだのを受けて、「モモ」を読み直してみました。話の内容はおぼろげながら覚えていたとはいうものの、何せ20年前の話。また新しい気持ちで読むことにしました。

何はともあれお話の語り口(書き方)が優しいのがとても印象的でした。誰かが読み聞かせをしているのを聞いてるような感覚で読めるのです。例えば二章の終わり、モモの不思議な能力のエピソードの締めくくりではこう書かれています。

「さあ、これでもやっぱり、人に耳をかたむけるなんてたいしたことではないと思う人がいますか?そういう人は、モモのようにできるかどうか、いちどためしてみることですね。」

なんてことない一文なのですが、こういうふうに書かれるとどうだろうかと自分に向かってしばし考える余地が生まれてきます。こんなところが全篇にわたってあちこちにあるので、話の内容としては現代文明批判めいたものであっても、いわゆる“おはなし”として咀嚼することができるように思います。

またモモが灰色の男たちとの戦いに勝つことができたのは、モモの持つ不思議な能力のおかげだったのかと記憶していたのですが、そうではなかったのは意外でした。モモの友だちだったおとなやこどもはみんな灰色の男にいいようにされてしまって、たったひとり孤独になったところからモモ自身が持つ本当のちから(それは耳をかたむけるという能力の先にあるもの)が芽をふいたんですね。そしてモモ自身が芽をふかせたものは、何もモモが特別だからできたものではない。これはとても大事なことのように思いました。

なんか、ほんとこんな優しい話を読んだのはひさしぶりでした。この年齢になってもう一度読む機会が持てて、とてもよかったです。

2004年3月 9日(火)

「狐笛のかなた」(上橋菜穂子・理論社)

狐笛のかなた

守り人シリーズはちょっとお休みして最新作を読んでみました。

純粋な恋愛物語というと多少語弊があるかもしれませんが、どこまでもどこまでもまっすぐな話。バルサの人生経験からくる思慮深い行動や言葉と比べるとちょっと物足りないかなという気もしますが、それを補って余りあるまぶしさです。

でもこの世界がこのまぶしさを素直に受け止められる世界なのかどうかというのは、読んでいる最中も読んだあとも気になって仕方がありません。自分の周りだけでもそうありたい、いやそうあらねばならない、そんなふうにも思いました。

2004年3月 2日(火)

「夢使い(6)」(植芝理一・講談社)

夢使い 6 (6)

瑠瑠たんのショート...(←反省してません)。

... は、ともかくとして「母が子を産む……そのありふれた事こそがまさに生命の奇蹟じゃないかしら?」とかさらっと言わせてるところあたりがオドロキです。

一応最終巻らしいんですが、なんか中途半端な感じ。打ち切りだったの?まさか。

「いつもいつも音楽があった シュタイナー学校の12年」(子安ふみ・音楽之友社)

いつもいつも音楽があった―シュタイナー学校の12年

僕には音楽の素養がまったくないし、趣味も極めて貧しいと言わざるを得ませんが、この本に書かれているような出会いがあったら何が起きていたかと想像すると、いったい今まで自分は何をやってきたのだろうと呆然となってしまいます。もちろん芸術体験や創造がすべてとは全然思いませんが、ひとりの人間の成長を考えるときに大きな力になってくれただろうことは確かだと思うのです。

「要するに人間は職業ではなく、親ではなく、まず人間として出来ていないと駄目だということだ。」

... その通り(汗;。

2004年2月22日(日)

「『モモ』を読む シュタイナーの世界観を地下水として」(子安美知子・朝日新聞社)

「モモ」を読む―シュタイナーの世界観を地下水として

ミヒャエル・エンデの「モモ」をシュタイナーのアントロポゾフィー(人智学)の観点から読み解く本。今まで読んだ本がどちらかというとシュタイナー教育そのものに焦点を当てていたのに対して、この本ではその哲学であるところのアントロポゾフィーそのものが顔を出していて(ちなみにシュタイナー教育ではアントロポゾフィーそのものを教えることを固く戒めている)、初めてその哲学の片鱗に触れたとも言える。そのものを感想として書くにはまだまだ知らないことがたくさんあるので、とりあえずひとつだけ。

本の中で、アントロポゾフィーの修行のひとつとして「一日の回顧」が何度か語られていたのがとても印象的だった。「モモ」にも床屋のフージー氏が灰色の男に「あなたには、毎晩ねるまえに十五分も窓のところにすわって、一日を思い返すという習慣がある」と指摘される部分で出てきている。今日一日のことを時間を逆に追って思い出してみるということなのだけど、試しにやってみるといつもいつも同じように過ぎていく朝の通勤の情景なども、きちんとその日の情景として思い出せることが意外だった。例えばそれは、朝乗った電車に乗り合わせていたひとがどうだったとか、そういう後から考えればまず思い出さないようなことまで、じつは覚えている。これ自体、アントロポゾフィーと関係なくてもいいことのように思えるので、しばらく続けてみようと思う。

ともあれ「モモ」ってそれほど奥深い話だったけ、というのがいつわらざる感想。読んだのが小学5年生のときだしそれ以来「モモ」を読むことはなかったから、とてもよかった、という以上の感想がなかったのは当然かもしれないけど、それは単にいまはまだ思い出せないだけかもしれない。20年前に何を考えて「モモ」を読んでいたのかということも含め、もう一度いま読み直してみようと思う。

2004年2月11日(水)

「ARIEL(20)」(笹本祐一・朝日ソノラマ)

最終巻。最後の最後で絢嬢にスポットライトがあたってうれしかったです。登場人物のみならず、おめでたナイトホークやオレンジ色のビートルをはじめとする機械たちまでキャラクタとして大切に描かれてるっていうのは、この作品の魅力ですね。でも由貴をはじめとする女子高生3人組があそこまで化けるとは正直思わなんだけど。

印象に残っているのは京都の修学旅行をめぐるドタバタのあたりかなー。1巻を読んだのは中学生のときだったから、かれこれ10ウン年ですか。僕に取っては想い出深い作品の1つです。

2004年2月 4日(水)

「マリア様がみてる ロサ・カニーナ」(今野緒雪・集英社)

マリア様がみてる - ロサ・カニーナ

3作目「いばらの森」まで読んでいまいち続けて読む気が起きずに放置していたのですが、あわたけししょーが「祐巳たんは経年劣化した体制の破壊者」との発言されたのを受けて、もう少し読み進めることに。

3作目までを読んだときには正直しんきくさい印象を持っていたのですが、自分のなかで世界観がこなれた(笑)のか、さくさくと読めました。でもなんとなく話がきれいにまとまりすぎている気が。祐巳もその片鱗を見せているわけでもなく、ちょっとモノ足りなく感じてしまいました。まぁ基本的には悪役は出てこないのよね... このお話は。

どうでもいいのですが、祥子さまのおうちの豪華さにくらべてうちは庶民だと言っている祐巳のおうちも、一般から見ればかなり裕福なんだろうなぁ。ずるいよね(こらこら)。