「『モモ』を読む シュタイナーの世界観を地下水として」(子安美知子・朝日新聞社)を読んだのを受けて、「モモ」を読み直してみました。話の内容はおぼろげながら覚えていたとはいうものの、何せ20年前の話。また新しい気持ちで読むことにしました。
何はともあれお話の語り口(書き方)が優しいのがとても印象的でした。誰かが読み聞かせをしているのを聞いてるような感覚で読めるのです。例えば二章の終わり、モモの不思議な能力のエピソードの締めくくりではこう書かれています。
「さあ、これでもやっぱり、人に耳をかたむけるなんてたいしたことではないと思う人がいますか?そういう人は、モモのようにできるかどうか、いちどためしてみることですね。」
なんてことない一文なのですが、こういうふうに書かれるとどうだろうかと自分に向かってしばし考える余地が生まれてきます。こんなところが全篇にわたってあちこちにあるので、話の内容としては現代文明批判めいたものであっても、いわゆる“おはなし”として咀嚼することができるように思います。
またモモが灰色の男たちとの戦いに勝つことができたのは、モモの持つ不思議な能力のおかげだったのかと記憶していたのですが、そうではなかったのは意外でした。モモの友だちだったおとなやこどもはみんな灰色の男にいいようにされてしまって、たったひとり孤独になったところからモモ自身が持つ本当のちから(それは耳をかたむけるという能力の先にあるもの)が芽をふいたんですね。そしてモモ自身が芽をふかせたものは、何もモモが特別だからできたものではない。これはとても大事なことのように思いました。
なんか、ほんとこんな優しい話を読んだのはひさしぶりでした。この年齢になってもう一度読む機会が持てて、とてもよかったです。
デバッグ中のドーピングBGMを所望していたのですが、YUPPEさんが日記で書いてたI'veの「Short Circuit」が電波系代表2作「恋愛Chu!」「さくらんぼキッス」を収録しているということで、試しにamazonで購入してみました~。
iTunesで取り込んで経つこと1週間。「トップ25」のプレイリスト(再生回数の多いトップ25)に軒並みランクインしていました(苦笑)。もうそれは頭の先までどっぷりと(汗;。旋律が脳内を駆け巡ってます...。
あれは良いでしょう(笑)。
電波だけど、単に電波だけで終わらないのがすごいところです。
どうもです(^^;。
ちゃんとエンタテインメントしてますよねー。なんつーか、楽しいです。
文藝春秋2004年3月号が転がっていたので、とりあえず芥川賞受賞二作を読んでみました。どちらも個人的には特にどうでもいい感じの作品でした。どうやら僕には理解の素養がないようです...。
感じたことを率直に書くと、基本的にどちらもまっすぐだなーってことですね。書いてるひとはもちろん若いのですが、その若さが作品からも透けて見えるようでした(悪い意味ではないです)。特に綿矢りささんの「蹴りたい背中」なんかは、おじさんが「娘の気持ちってこうだったのか」みたいなことを考えてしまってもおかしくないような感じ(もちろんそういう考えは作品の本質からははずれてしまっているのだけど)でした。でもこれ同世代のひとが読んだらどう思うのかなぁ。もうちょっと人間は意外性と複雑さに満ち満ちているように思うのだけど。
アナたん...。
いやいや、ますますもってお気に入る世界にぶっ飛んでいるのでいいです~。「リコちゃんハウス」の脈略のなさなんか、うい師が哲学的と評するのもうなずける。いずれにしてもある意味かなり高度な笑いだとは思うのだが。
第102話「A7M3丸子マルコ」でのアルファさんの発言を受けての第108話「しずく」のモノローグは意味深い。「ロボットであることを気にしてなきゃいけないとは思っていない」という裏返しとして「ロボットであることを気にしないでいられることはない」ということがあるんだろうな。
ほとんど1年1冊ペースだけど、これぐらいのスピードで楽しみたい作品は他にないかも。
現在、東京シュタイナー・シューレの上級学年講師を務める著者が、東京・町田(かな?)で主催していた小学生を対象としたヴァルドルフ教育のフォーラムでの活動記録をつづったもの。活動の中に誕生日に著者が子どもたちに詩を贈るというものがあり(実際のヴァルドルフ学校では1年の締めくくりに先生が生徒に通信簿とともに詩を贈るらしい)、それぞれの子に贈った6年分の一連の詩を取り上げながら、著者の思いと子どもたちの成長の軌跡が記されている。
今まで読んだ本は、ほとんどが海外(主にドイツ)での事例を取り上げたものだったり、ヴァルドルフ教育“を”学ぶことが主だったりしたが、この本は実際に日本でヴァルドルフ教育“で”学んだ実践の記録であり、ずっと具体的で身近に感じることができた。でもそれよりもなによりも、「あ、教育ってこういうものなのか」ということにはじめて気づかされた、とても印象深い本だった。
教育が何か知識や経験を教えることだったら、その道(国語、算数、理科、社会、などなど)のプロフェッショナルであればできるような気がする。でも、その子の話を聞いたり、友だちや親とのやりとりを観察する中で、本人もまだ気づかないその子の心の姿を知りそれに少しでも応える取り組みは、相応の訓練を詰み、さらに経験を詰んだひとでないとできないだろう。誕生日にその子の心に響くたったひとつの詩を贈る、という行為の中に、学問ではなく教育の本質が見えるように思った。親に出来ることもたくさんあるだろうけど、これだけはなぁ... 親・親戚以外の第3者の大人から言葉を贈られるというのはいい体験になりうると思うし、自分の子どももそういう大人と出会って欲しいと思います。
解放そのもの以上に、外交努力によって解決されたことに安堵しました。真実は知るべくもないですが、ひとまずは日本とイラクの関係に深刻な禍根(感情的な意味において)が残らない形になってよかったです。
ただイラクやその他の国に対して、日本の意思によって自衛隊が派遣されているというプレゼンスは変わっていません。そしてそれがアメリカを支援しているという理解に無理はありません。これに対して、それでもなおイラクに留まることに意義があることを説き続ける必要があります。現にまた日本人二人が拉致されました。イラクだけでなく、どこで拉致が起きても不思議がない状況にあって、その中で何ができるのかをそれぞれが考えるしかないのでしょう。誰か(政府、自衛隊、NGO...)がよかれと思ってやったことも、それはあなたに取っていいこととは限らないのです。
それと。ネット上では人質にとられているひとを“三馬鹿”と書いているひとが少なからず見受けられますが、人質になったひとたちの行動の是非に対する主張はともかく、非常に不快感を覚えます。どうしてつい先日まではよく知らなかったひとのことをいとも簡単に馬鹿と書けるのか、僕には理解できません。
守り人シリーズの最新刊二巻読了。アスラを通して自らの心の闇を追い続けるバルサの想いも心に残りますが、スファルの放つ追っ手からの逃避行のあたりも手に汗握る感じで読み応えありました。ひとの意思と意思のぶつかりあいを描きながら、ベースとして冒険活劇をはずしていないところが好きですねー。
「血税(という表現もアホかと思うけど)を使って救出するのはいかがなものか」みたいな意見を見ると正直むかつきます。素直に「税金を使うなら助けないで欲しかった」と言えばいいのに。税金を使っても助けたほうが割に合うだろうと政府が思ったから助けたんだと思ってるんですが... 文句は助けた政府に言うべき。まぁ当の政府にとってみればイヤミ(以外の何物でもないよな...)のひとつも言いたい気持ちはわからなくもないんですが... 個人相手に正直大人げないです。
なんというか今回の事件が結局最後には国内の問題に落ち込んでしまうところがなんて内向きなんだろうと気が滅入ります。