Gelsominaの本の散歩道(1〜10件目)
by Gelsomina |
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現在、82件が登録されています。(最近読んだ1〜10件目を表示)
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著者 | サン=テグジュペリ | 出版社 | みすず書房 | 読んだ日 | 2005.1.30 | 書いた日 | 2005.2.1 |
感想 | 飛行家サン=テグジュペリのさまざまな冒険的体験から生まれた、詩的考察にもとづく小説。とはいえいわゆる小説からは遠く、その形式を説明するにはアンドレ・ジッドが作者に与えた助言を借りるのがふさわしい。「一種の……そう、花束というか、穀物の束というか、時間や空間を無視して、一飛行家の感覚、心情、知性に訴えたものを各章に雑然と寄せ集めたような作品を。」(訳者あとがきより) あるときサハラ砂漠の基地で、サン=テグジュペリはマウル人の奴隷バルクと知り合う。奴隷の身に心を死なせず故郷を思い続けるバルクのために、彼はマウル人と交渉し自由を買い戻してやる。しかし故郷の村にほど近い市場に立ち戻ったバルクにとって、長い不在の末に得た自由は苦いものだった。その自由は、彼が「どれほど世界との繋がりが欠けているか」ということを気づかせるものだったから。「ちょうどそのとき、子どもがひとり通りかかったので、バルクは優しくその頬を撫でてやった。子どもはにこりとした。(中略)その子どもはバルクを目ざめさせた。バルクは、彼のおかげでにこりとしたひとりのひよわそうな子どものために、自分が地上ですこし重みを持ったことに気づいたのだ。」(108p) バルクはそこにいた貧しい子どもたちに、いっぱいの贈り物をして無一文になる。「明日、彼はおのれの家族の貧困のなかに立ち戻っていくだろう。彼の老いた腕がおそらくは養いうる以上の生命に責任を持つだろう。しかし彼は、すでにここで、おのれの真の重みをどっしりと持っていたのだ。人間の生活にしたがって生きるにはあまりに軽すぎ、術作を弄して、帯に鉛を縫いこんだ大天使のように、バルクは、あんなにも金糸の上履を必要とした無数の子どもたちによって地上に引き寄せられ、重い足取りで歩みはじめていたのだ。」(110p) この生は、絆を持つ他者への責任であり、この生は、繋がりをもつの他の生によって役立ち、重みをもたらされている。その思いは『星の王子さま』へと繋がってゆく。 |
著者 | 小島俊明 | 出版社 | 筑摩書房(ちくま学芸文庫) | 読んだ日 | 2004.12 | 書いた日 | 2005.1.20 |
感想 | 本書は『星の王子さま』のたいへん良心的な注釈書です。 わたしが岩波版で戸惑いをかんじた「時間をむだにする」を含む箇所を、小島氏は、「きみの薔薇の花がそんなにも大切なものになったのは、きみがその薔薇の花のために時間を費やしたからなんだよ」と翻訳しています。 また他の箇所に「飼いならす」という重要なキーワードがありますが、これについても小島氏は、作者は「飼いならす」という日常的な言葉を使いつつそこに詩的で新しい意味を盛り込んでいると説き、「絆を創る」「心のつながりを創る」という語を当てています。 小島氏自身による翻訳はシンプルでわかりやすく、また詩的でさえあります。部分訳ではありますが、それぞれに非常に示唆に富んだ解説が付されています。次のような箇所は本を読んだときに記憶に残りませんでしたが、この度は深くかんがえさせられました。 ――「ぼくはね」と王子さまはなおも言いました。「ぼくは一輪の花をもっていて、毎日水をやっていたんだ。三つの火山を持っていて、毎日煤はらいをしていた。休火山の煤はらいもしていた。いつ火をふくか誰にもわからないんだ。ぼくが持っているってことは、火山にとって役に立つし、ぼくの花にとっても役に立つんだ。」――(小島氏訳) また、サン・テグジュペリがこの作品を通して、文学におけるリアリティー、詩的リアリティーの復権を要求していたという論にも、目を見開かされるおもいがしました。『星の王子さま』のそばにいつも置いておきたい本です。 |
著者 | サン・テグジュペリ | 出版社 | 岩波書店 | 読んだ日 | 2004.12 | 書いた日 | 2005.1.17 |
感想 | 友人とのふとしたやりとりから、子ども時代より記憶のなかに積み重ねてきた本たちを、読み返してみようと思い立ちました。あのころ感じた気持ちといまの気持ちではどう違いどう変わっていないのでしょうか。まずは『星の王子さま』です。 たしか11歳くらいのころにたいそうすきだったのですが、そのすきさかげんは「この本にはずいぶん不思議なことが書いてあるなあ」というものでした。なにかいいことが書いてあるようなのだけれど、どこか遠い声のようなかんじ。でもいま読んでみると物語の言葉は深く、ちっぽけですがそれでもあれこれ重ねたわたしの人生経験が、王子さまの言葉のなかに凝縮されているようにおもい、本を持つ手がすこし震えてしまいました。 「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思っているのはね、そのバラの花のために、時間をむだにしたからだよ」 というキツネの言葉があります。ここでいう「時間をむだにした」とはどういう意味なのでしょう。原文をあたっていないので確かではありませんが、「時間を失う」とか「時間を費やす」という意味かなと想像しています。つまり、なにかをたいせつに思うことはそのもののために時間を費やすこと、そして自分の時間を失っても惜しいとはおもわないものだといいたいのではないか、とおもったのです。 とはいえ的はずれなことをいっているかも知れず、センスの鈍さを露呈しているだけかも知れません。須賀敦子さんの『遠い朝の本たち』にもこの本に触れてる章があります。数年前のユリイカと合わせて読んでみようとおもいます。 こういう言葉もありました。 「まっすぐどんどんいったって、そう遠くへいけやしないよ」 これから横道にそれ寄り道しながら少しずつ、「記憶のなかの本」も読み返していこうとおもっています。 |
著者 | フィリップ・クローデル | 出版社 | みすず書房 | 読んだ日 | 2004.11.7 | 書いた日 | 2005.1.31 |
感想 | 第一次大戦中、フランスの小さな町の川縁で、昼顔とよばれる幼い少女の扼殺体が発見された。少女は父親の居酒屋で働いていた。物語は一見ミステリー仕立てで幕を開ける。しかし語り手の「私」はまず町について、周囲の人々について、押し殺 した暗い調子で語りはじめる。「私」とは一体だれなのか、長く明かさないまま謎は幾重にも重なってゆく。 その町は前線にきわめて近かった。にもかかわらず、多くの人々は兵役をのがれていた。(おそらく軍需)工場があり、労働者として借り出されていたから。そして前線から町には、毎日のように無惨に傷ついた兵士らが雪崩れこんできた。「私」の語る口調には、罪障感と命拾いの安堵感が入り混じり、後ろめたさに裏打ちされた強い悲哀が漂う。なぜ「私」はこれほどまでに悲しみに満ちているのか。それを知りたい。ページを繰る手ももどかしくなる。そのあいだにも少女殺しの謎解きは、「私」の物語を細い細い糸で縫うようにひっそりとすすんでゆく。どこか遠くの灰色の町の物語。だが彼方から遠雷のように砲弾の音が響いてくるその町は、もしかしたらいま自分が住むこの町か、あるいは聞き知っているどこかの町ではないのかという思いにふと囚われる。 |
著者 | 金子光晴 | 出版社 | 中公文庫 | 読んだ日 | 2004.10.27 | 書いた日 | 2004.10.27 |
著者 | 久生十蘭 | 出版社 | 三一書房 | 読んだ日 | 2004.10.26 | 書いた日 | 2004.10.27 |
感想 | 仏蘭西王ルイ14世の御代に、鉄の兜をかぶせられ幽閉されていた謎の貴人がいたという伝説はデュマの小説などでも有名な話です。久生十蘭はその鉄仮面の物語を金糸銀糸を織りこんだような名文で語り、心躍る活劇絵巻に仕上げています。 |
著者 | 川上弘美 | 出版社 | 文春文庫 | 読んだ日 | 2004.10.21 | 書いた日 | 2004.10.22 |
著者 | 林芙美子 | 出版社 | みすず書房 | 読んだ日 | 2004.10.9 | 書いた日 | 2004.10.27 |
感想 | 著者自身による改作前の、「原・放浪記」。改作後の新潮社版には少ない詩的な響きにあふれ、迫力に満ちています。執筆当時、芙美子若干25歳。すごいです。 巻末の森まゆみ解説にある、カフェ時代の著者と、数年後作家として成功しパリに旅立つ著者の、2枚の写真におけるその変貌ぶりには眼を見張るものがあります。世に認められた林芙美子は「原・放浪記」にしるした生々しい過去の文章を許せず改作したといいます。じつに人間は変わるものなのだなと実感しました。 芙美子は童話も書いていたようですがどんなものなのか読んでみたいとおもっています。 |
著者 | 茂田井武 | 出版社 | 架空社 | 読んだ日 | 2004.10.5 | 書いた日 | 2004.10.5 |
著者 | 茂田井武 | 出版社 | JULA出版局 | 読んだ日 | 2004.10.5 | 書いた日 | 2004.10.7 |
感想 | 1930年、22歳の茂田井武はヨーロッパ放浪の旅に出ます。3年余を過ごしたのちに帰国。後年、ふかく記憶に刻みこまれた異国の印象を「そのときそのままの不死の姿」として画帳に書きとめ、3人の子どもたちのために『おとうさんの絵本』として遺そうとしましたが、果たせず、病に倒れて逝ってしまいました(カッコ内は茂田井武の文章「印象のレンズ(私の描きたい絵)」より)。 『古い旅の絵本』はおそらく、『おとうさんの絵本』に加えられたであろう画帳の1冊とされています。『じぷしい繪日記』の随筆をあわせて読むと、若き日の茂田井武の青春の息吹が鮮やかにかんじられます。 |
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