読書日記(21世紀文学の創造 7 男女という制度)
by 鈴木 宏枝
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21世紀文学の創造 7 男女という制度(21せいきぶんがくのそうぞう だんじょというせいど)
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原題 | (N/A) | 読んだ日 | 2002.2.8 | ||
著者 | 斎藤美奈子編 (さいとうみなこ) | 訳者 | (N/A) | 画家 | (N/A) |
出版社 | 岩波書店 | 出版年月日 | 2001.11.9 | 原作出版年 | (N/A) |
感想 | 「性と批評が出会うとき」(斎藤美奈子)「「あたし」という恋愛体質論」(川上弘美)「文学は美醜をどう描いてきたか」(大塚ひかり)「「ネカマ」のすすめ」(佐々木由香)「日本語とセクシュアリティ」(藤野千夜)「戦後日本と「赤毛のアン」」(小倉千加子)「ジャンル小説の文法」(小野俊太郎)「ポスト「少女小説」の現在」(横川寿美子)「冒険物語の中の男の子たち」(ひこ・田中)「ジェンダー・フリー教材を探しに」(金井景子)
想像していたような批評書とは全然ちがって、一般向けの分かりやすい話だった。斎藤さんの「編者から読者へ」でぐっと引き込まれたのだけど、全論文の俯瞰があってそれは読み終わってからでないとよく分からないので、各論を読んでから再び最初に戻る。やはりおもしろかった。 それぞれの論の立て方が、アカデミックな論文調、エッセイ風など色々で、「男女という制度」(この言葉も、いろんな意味が付与しすぎてしまう「ジェンダー」や「フェミニズム」ではなく良かったと思う。「児童文学」や「ファンタジー」もなんか一丁名称を脱ぎ捨ててみたいものである)をひとつのテーマにしながら、各人が好きなことを言っているという印象を受けた。日ごろの主張を知っているひこさんや横川さんの論は分かりやすく、文学(と文学の含まれる文化領域)の現在を改めて言葉にしてくれたと思った。「そうなのよ」とうなずけても、自分でそういう論文を書くのは、なかなか難しいもので。 川上弘美のエッセイはそれ自体だけなら楽しめるけれど、(斎藤さんのフォローがあるにしろ)なんだか浮いているように感じた。藤野千夜はちょっと期待はずれだったかも。ネカマの実況は実はいちばんするすると読み進めることができたのだけど、「男」を炙り出してそしてその先は?というところで不満。 赤毛のアンを論じた小倉論文は確かにおもしろいし、アンはおっしゃる通りのfather's daughterであり、ひとつの強固なロールモデルとして機能してきてしまった、ということは納得できるのだけど、アンの「転覆」性はその論の中では矛盾しているように思えたし、「近年の読書世代」を乱暴に括りすぎていて、<日本人女性の自我は、児童文学、家庭文学の枠に収まる程度に未成熟なままであり、アンはいまだに彼女たちが愛して止まない理想の「少女」なのだ>(p.159)という言及にも違和感を覚える。 ジャンル小説論は、個人的に興味深いところであり、児童文学はその「ジャンル」におさまる(成長モデル・教育を一種のジャンルと捉えた場合)ものなのか、ロマンスやハードボイルドなどのジャンルを越境していくものなのかというところを自分で考え直してみたいと思った。本文とはあまり関係ないけれど、註につけられていた<「体験」を重視することは、素朴な実感主義や狭苦しい見方を生じさせる危険があるが、同時に、理論ではすくいきれない要素を発見できる場である。だが、「体験」は誰かによって語られて初めて「体験」たりえるという逆説をもつのだ。そこでは、語り方を問いかける「ナラトロジー」が、重要な鍵を握る。「誰」が「誰」に向けて語っているのかが問題なのだ>(p.175)という言及は、ふとすれば忘れがちなこと。改めて喚起させられた。また、ハードボイルド小説とボランティアという奇妙な組み合わせも意外に納得。<読書行為こそ、まさに「ボランティア」の最たるものである>(p.194)というのは、金子郁容さんの本を読んだ後ではさもありなん。 一番おもしろかったのは、最初のブス論と、最後のジェンダー・フリー論。ブス論は、こういう本に私が求めていた「目ウロコ」がいっぱい。シコパワーや仏教思想から長いスパンで論じられ、さらには、「美醜は関係ない」という何よりも強固な美至上主義は、まさに私もその中に含まれる現在の問題である。 ジェンダー・フリーの話の方は、教材論であるだけに最初は眉唾だったのだけど、「だれもがたったひとつのマイノリティの存在」(安達倭雅子)という刺激的な一言から、すごく伸びやかに主張が広げられていて、私自身のポジションをさらに補強してもらったような(おこがましいけど)すっきりした気分になった。 |